人はどこまで自分の自由を犠牲にすべきなのか

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映画「この世界の片隅にIn This Corner of the World’ (แค่วาดฝันให้โลกสวย)」がタイでも上映されていましたので、鑑賞して来ました。

名作という声もありましたが、どうなんでしょうね。

あの物語をどう捉えるかというところだと思います。

主人公のすずさんの息苦しさというか葛藤が全面に感じられるお話でした。

戦時中の広島に生まれ育ったすずさんが、よく分からないまま呉へ嫁ぎ、よく分からないまま嫁としての仕事をこなし、その中で様々な葛藤を抱えながら、徐々に周囲と打ち解けつつも、時代背景もあって更なる葛藤に悩まされる。

物語全体を通してはすずさんの天然な性格もあってか、そういう描き方なのか、それほど悲壮感を深刻には感じないものの、前半部分は共感できるほどにはすずさんのお嫁さんのしての息苦しさは明確に描かれている。

戦時中という時代にあって、個人の自由というものはほとんどなかったのだと新鮮な感覚で見ることができれば良いのですが、実際は共感してる自分がいるんですよね。

個人的に、この話は戦時中の話ではなく、日本社会の在り方を描いているようにも感じました。

まあ、しかしあれが日本社会の問題なのかと言われれば、よく分からないですね。

そもそも私はガチドメな日本人ですので、他国の文化をよく知りませんから、あれでも普通に思えるわけです。

もしかしたら、あれは日本社会の問題ではなく、劇中でも出てきますが自分の選択の問題なのかもしれません。

人間が社会にいる限りは完全に自由であることはできないにしても、人が自分を自由にするためにどれだけのものを犠牲にできるのかというのは、やはりその人の選択次第ということにもなるわけです。

さらにあの時代のような社会背景があれば、自分を犠牲にせざるを得ない割合は現在よりも大きかったでしょう。

人は多かれ少なかれ自分の何かを犠牲にして他者のために生きるわけですが、自分の自由を犠牲にしても他者のために何かをすることが正しい道なのかもしれない。

私個人は自分の自由を追い求めるために葛藤を繰り返しているようにも感じているわけですが、果たしてそれが正しいのかもよく分からないですね。

劇中で、大声やカナキリ声で他人を叱責する日本人が何人も描かれていましたが、私はまさにあれですからね。

タイの人から見れば、たぶん怖いしただのキチガイだと思うでしょう。

どれだけ自由を追い求めても、自分という器からも、自分が選択した道からも逃れられないわけですよね。

もちろん道を変える自由はありますし、自分を追い込めば自分という器を変えることもできるかもしれません。

正直、私は自由というものが何なのかよく分からないのだと思います。

尾崎豊は「支配からの卒業」という歌詞を書いていますが、実際に彼の伝記を本で読んでみると、結構なに不自由なく育っていたりして、じゃあ彼を支配していたのは何なのかっていうのが曖昧なままだったりするわけですよね。

天才は自分の中にない感覚でも書けるんだよと言ってしまえばそれまでなんですが。

別に社会で生きていても、自由に生きている人はいるわけです。

一方で社会から外れても、息苦しさを感じている人もいるわけで、その原因が何なのかをもっと追求したいなあという感じというか、映画を見て、なんだか自分の中に自己犠牲への美徳みたいなものを潜在的に抱えているのかもしれないと思ったり思わなかったりしてちょっと見ていて苦しかったですね。

まだ私も子を持つ親にはなれていないわけですが、子供にはできる限り自由であることを許容したいですね。

それができる人間なのかという一種の懐疑心もあるわけですが、人生において本当に大事なことは自分を見失わないことだと思いますし、そのためにも個人の自由を最大限に認めることが教育にとっても重要だろうと思うわけです。

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